自己満足できなくて何とするか!!
October.27th.2023 / written by A.Mitsuki
僕は自己満足が好きである。どれだけの自己満足を集められるかに僕の人生がかかっているとすら思える。
他人のため、という気持ちはある。しかし、それはあくまでも自己満足の副産物でしかなく、主産物にはなりえない。無償の寄付をすることだって、何かしらの自己満足に繋がっているのである。
日々の自己満足集めには自分なりのポリシーが絶対に必要である。
特に重要なのが、他人に迷惑をかけないこと、であろう。法律や一般的なマナーの範囲内で、ということを意識しておかなければ、多くの自己満足的行為は、誰かの権利を侵害するものとなってしまいがちなのである。
たとえば、レジの行列に横入りすれば自己満足もできようが、他の人の権利を侵害することになるように。よって、いかに自己満足に人生がかかっていると言えどもしてはいけない行為である。
逆に、他人の権利を侵害しているように見えてそうではないものもある。それは誰かと競い合うことで、結果的に自己満足を得られるようなケースだ。
ネットゲームで誰かと対戦し、勝つことで得られる満足感の裏には、負けて不満を抱く相手が存在する。これが『相手の勝利』という権利を侵害しているのかと言えば、そうはならない。というのも、これは『勝負』という前提条件の上で競った結果であるからだ。
スポーツなどはわかりやすく、この『勝負』という点で納得した上で行われている。
会社での営業成績なども、誰かが称賛されれば、それ以外の人は称賛されている勝者を見上げる側となる。が、これは権利の侵害ではない。そういう前提条件の元、行わているからである。
仮に、陸上競技において、前提条件に「全員で一緒にゴールテープを切ろうな、絶対だよ」という仲間内での約束があったとする。誰かはペースを落とすことで皆の歩調に合わせ、誰かは皆のペースに必死でついていくことで横並びとなる。そうして最後、ゴールテープを切る瞬間に突然ダッシュをして1位を獲る奴。競争という競技の中であれ、仲間内の約束を破る行為であり、この場合は当然他人の権利を侵害したことになる。その結果得られる自己満足を許してはならない。だから後日、皆から仲間外れにされたとしてもチート行為をした者に文句を言う権利はないのである。
このように他人に迷惑をかけない範囲内ということを念頭に置いて、僕は自己満足集めを行っているのである。
現在、2023年10月27日金曜日、午後3時すぎ。僕はバーミヤンという名の中華料理チェーンに来ている。
アイドルタイムという穏やかさを利用し、ほぼ貸し切り状態の中、ドリンクバーをくゆらくゆらさせ、この文章を記している。これは自宅でもできることなのだけれど、わざわざ車を走らせてやって来ている。まさに自己満足的行為なのである。そうして出来上がる文章もまた自己満足に溢れたものとなっている。こんなものを誰かが読まされてるとなったらたまったものではなかろう。しかし読者の家族を人質にとって無理矢理読ませているわけではないのだ。いかな駄文とて読む読まないはその人の自由であり、たとえこの文章が多大な不快感を生じさせるものであるとしても、その人の心を侵害したことにはならないのである。
ところで、バーミヤンのドリンクバーは何杯以上飲んだらお店の不快感を買うのだろうか。もしも店員さんを不快にさせてしまっては、僕的には侵害行為である。そうすると僕のこの自己満足は無に帰すことになる。そうならぬよう、なるべく笑顔かつ申し訳なさそうに「すみません」「ありがとう」と言うようにしよう。
『自己満足』という言葉は、どことなく批判的な意味を帯びている。それだけ悪い意味を以て一般的に使われているということである。
たとえば、「おめー、それただの自己満足やんけー!」という発言の裏には、自己満足はよろしくないぞ、という心理がある。その心理の本質は「自分以外の人を満足させろ、特に俺を」ということになる。
そうなると、この発言者もまた『他人に自分を満足させること』を強いていることになる。よって「自己満足やんけー」と批判した本人も、言っておきながら自己満足しようとしているのである。自己満足の奪い合いループと言えよう。
ただし、多くの人はそんな本質的なことをいちいち考えて発言してはいない。結果に納得がいかないだけで、自分の発言に深層心理的なものが潜んでいることなどうだっていいのである。あくまでもコミュニケーションのひとつ、というケースである。
とはいえ、そのひとつひとつを個別に見ればコミュニケーション的に使われているだけだから問題はないのだけれど、あまりにも広く一般的に使われるがゆえに、その集合体として『自己満足することは悪いこと』という勘違いを生む結果となっているように感じられる。
自己満足は悪くない。
ただ、他人の権利を侵害しながら得られる自己満足が多すぎるのである。
他人に迷惑をかけていない上での自己満足と、他人の権利を侵害して得られている自己満足が、同じ『自己満足』というひとつの言葉にまとめられている。そこに勘違いの落とし穴がある。
この両者はまったく別物なのだ。
ちゃんと区別しよう。
自分の行動はただの自己満足ではないのだろうか、と悩み、結果的に自分を苦しめる行動をしてしまう人。苦しんでいる人が大勢いる中で、楽しんでいる自分が許せない人。自分のしていることが誰の役にも立っていないのではないか、と考え何もする気がなくなってしまっている人などなど。
ともかく自分の行動を、周囲というフィルターを通してしか見られなくなり、何をしても自分はダメなのだと自己否定に走ってしまう。
それでもそんな自分を誰かに認めてほしくて、自分以外の誰かに向けて行動なり言葉を発信してしまう。その多くが称賛されようとも、ただ一人批判してくる人がいれば、それだけで傷つき、また自己否定に陥ってしまう。
非常に残念なケースである。
自己満足は『周囲』というフィルターを通して行うものではない。周囲について考えるのはあくまでも『迷惑』に対してであり、それ以外は完全に『自己』のみでよい。
誰かが羨ましがるようなことである必要はないし、誰も称賛してくれなくてもいい。そもそも称賛するのが自分自身だからこその『自己満足』なのである。
他者から見た『自己満足』なんぞどうだっていいのではないか。
確かに、他者の感想が『自己満足』の満足度を高めてくれることはある。けれどもあくまでも一定レベルまでの『自己満足』は、自己完結できるものであるほうがいいように思う。
でなければ、いつまでたっても他人に依存した自己満足しか獲得できなくなる。そうなると結局、他人に楽しませてもらうことでしか、楽しめなくなる人となってしまう。それだと完全に運任せの人生となってしまうだろう。
いかにせよ、完全自分基準の自己満足を有しているということは、漠然と続く日々を少なからず豊かにするように思う。
気にするべからず、周りの非難なんぞどこふく風なり。