秘光奇地~A.Mitsuki's Life~

蒙昧なる駄文の数々をここに掲載しています。

『一般常識』が試験に乱用されたおかげさまで、『一般常識』が不純になった

『一般常識』が試験に乱用されたおかげさまで、『一般常識』が不純になった

職場に仕事のできない人がいる。仮にAさんとしておこう。
Aさんは自分が皆から陰口を言われていることを知り傷ついていた。仕事ができないという点についてはやや自業自得な面のあるAさんである。そのため周りがAさんの文句を言いたくなる気持ちもわかる。が、文句が正当な指摘の範疇ならばいいのだけれど人格否定の様相を呈してきたのである。そんなわけでAさんがちょっとかわいそうだなと感じた次第。

そこで僕は『誰かを不当に傷つけること』に対して、「一般常識のない人たちの言ってることだから気にしないように、あははのは」とカッコウをつけてAさんの気持ちの切り替えボタンを押してあげようとした。
するとびっくり「一般常識がなくてすみませんねっ!」とややキレ気味に言われましたとさ。うぇーん。

さて、Aさんがなぜ僕に「一般常識がなくてすみませんねっ!」という攻撃的反応をしたのかというと、「文句を言っている人たちよりも自分は仕事ができないのだから、自分は彼ら以上にもっともっと一般常識がない」と解釈したようである。

Aさんは一般常識という言葉を面接や試験で行われる知識のことだと認識しているということだ。
言い換えれば「馬鹿と言われた人たちよりも自分は馬鹿」と言われたような気になったわけだ。

AさんBさん、それから僕のその後についてはひとまず置いておくとして、ここで問題なのは入社や面接試験などで行われる『一般常識テスト』は本当に一般常識なのか、ということである。

一般常識というくらいなのだから、生きていれば当たり前のように知っている内容であるはず。しかしその多くは『試験対策』をしなければならないような内容となっている。事実、『全問正解』にならないよう問題は考慮されていたりする。というのも試験は受験者を振るいにかけるために行われるものであって、全員正解するような問題はテストとして出題する意味がないからだ。

一般常識というのは本来そういう『対策』を必要としない、普通に生きていれば身につく法的知識であったりマナーなどというふうに僕は考えている。それが最も言葉のイメージに合っていると解釈しているからだ。

試験用の『一般常識』はぶっちゃけ知らなくても生活に支障はない。たとえば過去の偉人が何をしたのかだとか紙幣の人物名とかどこぞの大統領の名前とかいついつにどんな事件があったとか。しかし僕の考える『一般常識』は知らなければ社会生活に支障が生じるものである。たとえば、他人に暴力を振ってはいけない、商品には代金を支払わなければならない、車道を歩いてはならない、信号は青が進んでもいい、できれば禿げたくはない、などなどである。つまりは本来的な意味での『一般大衆』が獲得する必要のある『常識』のことである。これは対策という対策をして知るものではなく、社会生活の中で自ずと身につける類のものだ。
「そんな簡単な内容では試験として成立しないではないか!」というのならば、その通り、一般常識は試験として成立しないような内容であるべき、ということ。

こんな感じで『社会人として』『大人として』などと形容される概念も『一般常識』のいちカテゴリーと認識している僕なのです。
だから僕は『人を傷つけている自覚がない』ことに対して『一般常識がない』と表現しただけのことである。

そんなわけでAさんへの励ましに対して、僕はわざわざ『一般常識』という言葉の解釈について説明をしなければならなくなった、というオチのお話でありましたとさ。

そうして説明を懇切丁寧にしたわけだけれど、試験として使われている『一般常識』こそが『一般常識』であると思い込んでしまっているAさんには、理解されなかったと思う。終始、不甲斐ない自分で悪かったですね、とふてくされた態度でした。たぶん『その文句を言っている人たちを代表して、その意見をまとめて伝えにきた』とでも思い込んでしまったのかもですね。被害妄想といいますか、それだけ今までに色々言われてきて防衛本能が過敏に働くようになっているのかもしれません。何か言わんとしているのかという文脈を理解しようとする前に、何かを言われているという時点で拒絶意識が働いてしまう。

さて、言葉の目的のひとつは伝達である。だから相手が言葉をどう認識するのかに合わせて使わなければ意味がない。そういった意味で僕の『一般常識』の使い方はAさんに対しては誤用ということになる。
たとえば有名なのでは「ヤバイ」という言葉が辞書の説明とは真逆の意味で使われるようになったのだから、「辞書にこう書いてあるのだから」と相手に言ったところで意味はない、ということ。
僕は「想像力」という言葉も使いづらくなったと感じている。一般的に「想像力」という言葉は『創造』を伴うイメージを抱かせる言葉になっているように感じる。それだけゲームやアニメなどの仮想世界エンターテイメントが一般的になったということなのだろう。
たとえば車の運転の荒い人に対して「あの角から子供が飛び出してくるかもしれないと想像力を働かせろぃ」と言うより「想定しろぃ」と言うほうが適切なように感じるわけだ。あと認知科学とかの認知も『認知症』のイメージに引っ張られるので、あえて『認識科学』と言ってみたり。それはそれで「間違ってるよ」と言ってくる人もいるから、ややこしいことになるんだけれど。他にもまぁ……多数ありますよねぇ。ではでは。

October.2022 / written by A.Mitsuki