秘光奇地~A.Mitsuki's Life~

蒙昧なる駄文の数々をここに掲載しています。

A.Mitsuki氏、受賞す ~受賞の表とか裏のお話~

A.Mitsuki氏は集英社主催の小説賞を受賞したことがある。

 

氏は自らの才能を分析するに、選ばれるほどの才能を有していないと思える。よって本来の受賞者が順に辞退し、辞退し、辞退し、やがて最後の最後に苦渋の決断で仕方なく氏に声がかかったのではないか、との疑惑を抱く。
しかし理由はどうあれ受賞は受賞なのであった。

 

どれほどに小さな小さな賞とて主催は天下の集英社である。授賞式が開催されるらしい。参加しなければならなくなった。

 

当日、担当となる編集者が選出理由を簡単に語ってくれた。
「こんなエグめの作品を書く人がどんな人なのか見てみたかった」らしい。
編集部では『不清潔な肥満、さらに妙なこだわりだけはある厄介者』が来るに違いないと予想していたとのこと。
これに対して、氏自身が真逆の『私が放つ清潔感はダイヤモンドのそれであり、いわゆるモデル体型であり、誰もが尊敬する崇高な精神を有している』なんて弁解しようものならば、胡散臭さこの上ない。
そこでここにはその担当編集者が語った、氏の実際の印象を記しておくことにする。
「普通」
きっと誉め言葉なんだろうネ♪

 

受賞作に対する編集長のコメントがサイトに掲載されていた。
『作品の熱量は投稿作中随一。心理描写がすごいのだが、まだまだ内容が粗削りで手直しが必要』
みたいな感じであった。

 

『過去の栄光』という言葉がある。しかし『現在の栄光』や『未来の栄光』が存在しないことから『栄光』そのものが『過去』というニュアンスを内包しているように感じられる。
さておき、この受賞は『栄光』と呼べるようなものではない。
たとえばノーベル文学賞江戸川乱歩賞、あるいは1年中水中生活賞などの受賞であったらば、それはまさに『栄光』であろう。
氏が頂いた賞はこれらとはひと味もふた味も違う。規定文字数さえ満たしていれば運次第で誰にだって取れる賞だと思えるものだ。例えるなら町内会の一発芸大会で入賞とか。

氏がなぜそこまで賞を低く見るのか。
①氏が受賞した
②氏は平凡である
③ゆえに小さな賞である
という論理が成立する。
実際に担当編集者も「小さな小さな賞なので期待しないでください」と言っていた。

そんなわけで氏は自慢はすれども賞の名称は伏せたままである。
ときに「その受賞も嘘なんじゃないのか。だから名称が言えないんだ!」という鋭いご指摘をなされる方がおられることだろう。
氏はこれに声を大にして反論する。
「受賞も嘘の『も』ってどういうことだ、おい! なぜ他の数多ある嘘まで見抜いているのか天才かっ!」
氏を非難する数多くの者たちの慧眼には感服するばかりである。けれども受賞は本当のことであった。

 

さて、ここからは受賞作の制作秘話に移ろう。
制作秘話は『文章を書いている人』あるいは『書こうと考えている人』には参考になると思われがちだけれど甘く見ないほうがいい。参考になることは何ひとつなく、時間と労力を無駄にしたうえ、ご立腹することになるだろう。きっと。

その頃、氏は文章の内容については全く考えず、規定文字数さえ書ければイイと都合よく考えていた。
世の中には小説新人賞なるものがあるらしいから、とりあえず送ってみてから考えようの精神である。
業界を知ってしまった今の氏は、過去の自分に対し、その豪胆さに大いなる恥ずかしみと少しの感服の意を抱いている。
『知らぬが仏』というのは最強スキルのひとつであると同時に、黒歴史を積み上げる諸刃でもある。使用の際は注意が必要だ。

 

小説新人賞は、文字数を満たしていればどんな酷い作品であろうとも投稿することが許されている。送るだけならばだけれど。実際に読んでもらえるかは『書き出し』が重要になるし、最後まで目を通してもらえるかは、小説として成立しているか否かによる。もちろん運もあるだろうけれど、それは最低限の小説としての体裁の上での話である。

 

まず氏は何を書こうかなどを考えずに、ワードソフトに1行目の文章を適当にポコポコと打ち出してみた。その1行の意味が続くように、次の文章をポコポコと付けたしていく。そうして水増し文章をポコポコポコポコと生産したわけである。
そうして何ページかの文章を書いていると、その文章とはまったく別の発想が生まれてきた。その発想は物語の序章のシーンのみで、最終的にどのような結末を迎えるのかなんてまるでわからない。それでも何となく書きやすそうに思えたわけである。
そこで、それまでの文章を消去し、思い浮かんだシーンの文章化を行った。これがそのまま受賞作の書き出しになったのである。
思い浮かんだ発想は、物語全体の1パーセントにも満たないものである。よって他は何も決まっていないし、考えついてもいない状態であった。
母を失い悲嘆に暮れる少女について書いているうちに、少女と犬を出会わせようかな、なんて思う。思ったまんま犬が登場する文章を続けてみる。まさに行き当たりばったり、文章を足していくというような手法であった。氏自身が物語の全容どころか前半部分すらも見えていない状態だったわけである。
そんなだから登場人物の名前も『●●』と表記して書き進めたりした。
氏が小説執筆に『プロット』なるモノが必要だと知ったのは、これより後のことである。

 

創作に対する信念はもちろんのこと、小さなこだわりすらもない。良くも悪くもそれがゆえに物語の進行に詰まることはなかった。
最終的に13万文字程度の物語になった。
仕事をしながらでも1週間程度で書き上がったわけである。

プロットというものすら知らない氏である。当然、推敲なんて知るはずもなく。
誤字脱字の確認をテキトウにして完成である。
こんなふうにして出来上がった長編を、応募締め切りが近い新人賞に送ったのであった。

どうせ1次審査も通らないだろう、と思っていたので審査結果にドキドキするなんてことはない。執筆の動機に『受賞』があったわけではなかったからだ。
『自分は小説とか書けるのかなぁ?』➡『書いてみようかな』➡『書けた』➡『じゃあ送っとこう』
という感じであったのだ。
そんなわけで氏は投稿した物語のことはすぐに忘れることになる。
小説賞の審査はそれなりの期間を要する。早くても数カ月は音沙汰ナシなのだ。

『自分は小説を書こうと思えば書ける人なんだなぁ』ということを知った氏は、すぐに次の物語の執筆に取りかかることにしたのである。
執筆方法は同じ。1枚の写真のような想像図を思い浮かべ、それを文章化する。その文章に思いつくままに付け足していく。その付け足し内容の是非は特に考えない。そんなだからまたすぐに書き上がる。締め切り時期の近い応募案件を探し、送付する。そしてまた次の物語に取りかかる。
結果的に、この時期、別々の物語を3社の小説新人賞に応募している。
そうして3社3作品が最終審査に残ることとなった。

氏の筆名は応募ごとに別々にしてあった。
登場人物の名前も決められないのだから、自分の筆名も決められるはずがなかったのだ。
出版社に原稿を送付するときにプロフィールを添付しなければならない。仕方なく、適当に筆名を割り当てていた感じである。

で。
3作が最終選考に残ったという報告は、当然予想外の結果であった。嬉しい気持ちももちろんあったのだけれど、精神の大半を支配したのは『焦り』であった。
なぜか。
『こんなことならばもっとちゃんと物語を作り込んで推敲をしておくべきだった』という心理が芽生えたのである。

 

思うに、多くの人がチャンスが到来したときにこそ後悔するのではないだろうか。喜ばしい事態の到来であるはずなのに、である。
これは、次のような心理メカニズムがあるからだと考えられる。
誰にだって夢や理想はある。その半面、『自分に限ってそんな幸運に巡り合うはずがない』なんて希望薄な気持ちでいたりもする。ゆえに頭の中で成功する自分をリアルにイメージすることができないのだ。まさに夢物語なのである。であればこそ、夢が叶った時の事前準備をしておけないのである。

たとえば難関国家資格の受験。
さすがは難関である。かなり早い段階からコツコツと勉強を積み重ねておかねばならない。そうは思えどまだまだ時間はあると考えてしまい、つい日々の勉強をサボってしまう。そうして受験間際になって「もっとちゃんとやっておけば良かった!」と焦りが生じる。

また別のたとえとして長年恋人募集中のモテない男がいたとしよう。
未だ出会いもなく彼女ができるのはまだまだ先のことだろう、と考えてしまう。男は適当に仕事をし、無駄に買物をするなどして怠惰にすごしてしまう。そんなある日、想定外の出会いがある。その女性との会話の感触は悪くない。男は大チャンスだと感じることだろう。と、同時に大きく後悔するのである。その女性に対して胸を張れる仕事をしていない、あるいはその女性をおもてなしするための貯金をしていない。ファッションセンスや教養を磨いたりしなかったせいで付加価値を示すことができない。それで、どうしてその女性を誘えるというのだろうか、と怖気づくことになる。こんなことならばもっと日々を大切にしておくべきだった、と後悔するのである。
いざ夢や理想に近い幸運状態に鉢合わせたとき、すでに遅しである。

『今はその時ではない』あるいは『まだだいぶ先のこと』と考えられる時こそが、準備ができる唯一の時間であるということなのでしょうなぁ。含蓄含蓄。

 

話を氏のそれに戻しましょう。
とはいえ、すでに文章提出後なのだから後悔しようともどうしようもない。結果を待つばかりである。
最終選考に残ったという報告以降、氏は『受賞連絡は今日かな明日かな? まだかなまだかなまだかな?』とソワソワしながら毎日をすごすことになった。幸せな日々である。
しかし、いつまで経っても音沙汰はなかった。
氏にも日々の生活がある。
やがて最終選考に残ったということは頭の隅にいき、全く思い出すことがなくなった。

そんな忘れた頃に、知らない番号から電話がかかってきた。
『どうせ何か営業の電話だろう』と思った。面倒だなと思いつつも、電話番号を変えた知人友人の可能性もあるため、通話に応じることにした。
氏は「はい」という言葉を「んぁい?」と聞こえるような感じで気だるそうに電話に出た。
「〇〇社です」
よく聞こえなかった。ただ相手は男であり丁寧であることだけはわかった。であればこそやはり営業かよと苛立ちを覚えてしまう。当然、続ける言葉も気だるそうな感じで「んぁ?」となる。まるで溜息のようでもあったろう。
氏がそんな反応だったからか、相手の活舌が良くなった。
集英社編集部ですが、〇〇さんでよろしかったですか?」と。
さすがにこれはハッキリと聞こえた。
……シウエイシャ? しゅうえいしゃ? 集英社
すっかり頭の隅に追いやられていた記憶が一瞬にして中央へと返り咲く。おかえりなさいまし、最終選考残存者。
これにて氏の態度は急転コロリである。電話であるというのに、背筋を伸ばし、一兵卒のごとき敬礼の心意気である。

 

受賞連絡はサイトに掲載される前に対象者に対して直接行われる。連絡がつかなかったり辞退されることもあるからだ。よって受賞は公式ホームページで発表されるまではご内密に、とのこと。特にSNSをやっているかなど詳しく聞かれるのだけれど、実際に発表前に暴露してしまう受賞者がいるのである。
その電話では、受賞したこと、今後氏の担当となる編集者自身が電話をかけてくれたこと。今後の予定などが伝えられた。その他、詳細は電話を切ったあとすぐにメールを送るとのことだった。以降、やりとりはメールにて行う。
電話を切ってすぐに本当にその編集者から挨拶のメールがきた。
それからは編集者からメールが来るのを待つのが日課となった。
しかし最初の挨拶メール以降、約1カ月ほど経っても次のメールが送られてくることはなかった。

 

氏はさすがに忘れられているのではなかろうかと不安になる。
あるいはすでにメールを送信してくれているのだけれど、何らかの理由でこちらのメールソフトには届かなかった、とか。この場合、編集者としてはリプライがなければ無視されたと考えることだろう。つまり、すでに受賞はボイコット扱いにされ、授賞式も終わっている。そんな考えが頭に浮かぶ。

では、こちらから一報を入れるべきか。否、それはさすがに何かを催促しているようにならないか。などと葛藤しながら、結局氏は何もせずメールフォルダーを開く毎日を送っていた。
そんなことを続けていると「どうせ今日もメールはこないのだろう」と虚無に近い心持ちでフォルダーを開くようになる。習慣化された無心のルーティンでしかなくなる。
やがて完全無防備の境地に達する。
そんなところに待ち望んだ相手からのメールが表示されるわけだ。
これは受賞を伝えられたときよりよっぽど嬉しかった。
編集者のメールには授賞式の日程や場所、その他必要事項などが淡々と書かれていた。
そんなこんなで、ようやく氏は受賞式を迎えるのだけれど、その授賞式はまだ先のこと、さらに1カ月後なのであった。
小説投稿って本当に気の長いものなのだなぁ。しみじみ。

 

受賞式は、帝国ホテルのスーパーミラクル大宴会ホールを一日中貸し切って行われることはなく社内の一室で行われる。
正装の必要はない。つまり大仏の着ぐるみ姿で行ってもOKということになる。しかし氏にその度胸はなかった。
1泊の予定である。持ち物も特に指定はない。

緊張と不安で睡眠障害に陥った氏は徹夜で家を出た。
新幹線で東京へと向かう。
東京駅は迷路のようで地方人には攻略難易度が高いと聞く。しかしながら人が認識できる空間は東京だからといって広がるものではない。どこの駅であろうとも『ややこしくて人だらけ』と感じるのに違いはないのである。よって恐るるに足らず。普段通り冷静に迷子になりました。

 

歩き回っていると、気づけば氏は背の高いビルの前にいた。
そこは指定された集英社のビルで間違いないようだった。
見上げると、空の上まで突き抜けているのではないかと思えるほどの高層ビルに思えた。それほどに緊張しているのか。いやそうではない。ビルに身体を張りつけるようにして真下を見ると、どのようなビルとてそう感じられるというだけのことであった。

とてもキレイなビルである。見慣れている人にはありふれた建造物なのだろうけれど、地方由来の氏には未来的建造物であるかのように感じられる。
ビルの壁が太陽の光をまばゆく反射し、その輝きがゆえ、壁の表面が超合金ダイヤモンドコーティングされているかのようである。まるで威圧感となって氏に降りかかってくるようであった。
場違いなところに来ちまったなぁ。あははのは。

メールで案内されていた通り、氏は受付で入館手続きを済ませる。熟練の警備員さんの手招きに従いエレベーターではるか高みへと向かう。
時間までの待機場所はその時使用していない小さな会議室であった。6畳くらいの広さで、テーブルセットと内線用の電話機があるだけ。特に物色する物もなく、ただただぼぅっとしていたらば、扉が開き一人の男が颯爽と入ってくる。
ストライプ柄のスタイリッシュなスーツ姿。一見してプライドが高そうである。髪はシティボーイ感バリバリのオシャレパーマだ。その姿のまま結婚式に参加しても違和感などありはしない。小さな会議室がさらに小さくなったように感じられた。空間は一瞬にしてエリート臭で満ち満ちた。
彼こそが天下は集英社の編集者であった。氏の担当であり、のちに氏に対して罵詈雑言の限りを尽くし『小説とはなんたるか』の基礎を教えてくれる人である。

編集者は氏を値踏みするかのように目を細くしてこちらを観察してくる。氏はなるべく目を合わせないようにして、しかし負けじと編集者を観察する。
色白で、彫りの浅い面相。体躯はスマートで身長はそこそこ高い。間違いなく異性にモテるだろう。そして自分がモテるということを自覚しているような自信が感じられた。
軽く挨拶をする。
何となく就職の面接に来たような気分だった。
その会議室にはカフェのメニュー表が置いてあったのだけれど、そこから好きなものを選んでくれと言われる。
コーヒーをお願いすると、編集者は内線を手に取った。しばらくするとスーツ姿の女性がコーヒーを持って来てくれる。
なるほど、会議中はこうして飲み物などを注文できるということか。さすが集英社!!

 

編集者が受賞作の簡単な感想を述べてくれる。
ここで編集部で「一体どんな人がくるのだろうか?」と話題となっていたことを知らされるわけだ。
実はこの時すでに、氏はこの編集者とは性格的に、というか気質的な何かが合わないのだろうなと感じていた。きっと編集者も同じように感じていたことだろう。
会話の間の取り方やテンポが微妙に合わないのである。
お互い、初対面で敬意を払い合っているというのにそうなのだから、慣れて気が抜ければなおさら合わなくなることだろう。
ただし、これは好き嫌いの問題というわけではない。性質の違いという意味であり、印象が悪いわけではないのだ。打ち解けることがないタイプの相手という感じで、ビジネスの相手と考えるとごく普通のことである。

 

とある著名な作家さんの言葉を思い出した。
『編集者との相性はとても大事』と。その著名な作家さんが作家として大成できたのは編集者に恵まれたからだ、と。
この言葉をそのまま鵜呑みにするようでは甘い。
凄腕の作家であったからこそ、編集者もその作家さんに合わせようとしてくれるのだ。その作家さんにとってプラスになるように、歩み寄ってくれるのである。
作家と編集者の相性は『性格が違うから合わない』などでは決まらない。
よって氏自身に光るモノが感じられなければ、編集者は相性の良い編集者にはなってくれないということである。

授賞式が行われる部屋は、学校の教室くらいの大きさであった。
特に何か装飾が施されているということもなく、3秒前の思い付きで「よし、今から授賞式をしてみよっか!」と言い出して始められるレベルのものである。
ただし、やたらと人は集まっていた。
皆、編集者である。
全員が次々に名刺を渡しにくる。他の編集部の人も多くいた。物見遊山のような感じか、あるいは一応の授賞式の体裁を取るためのサクラか。『こっちは忙しいんだ。受賞式とかマジいらねぇよ!』なんて思っている編集者もいたことだろう。

受賞者は氏を含めて3人。受賞式会場にて初めて顔を合わせた同士である。しかし、挨拶以外に何か話すことも許されず、空間に蔓延するアウェイ感を薄めるには至らなかった。

 

受賞式が始まる。
パイプ椅子が並べられており、その最前列が氏たち受賞者3人のもの。そして、ただでさえ弱い立場である氏の背後を取る形で、編集部のお偉方がずらりと並んだ。
まず壇上にて編集長が挨拶をする。祝辞とエールと出版業界の厳しさについて。
次に、壇上にて編集長が挨拶をする。祝辞とエールと出版業界の厳しさについて。
さらに次に、壇上にて編集長が挨拶をする。祝辞とエールと出版業界の厳しさについて。
編集長だらけであった。違う部署の。
そのうち2人は茶髪のオジサンである。1人はストライプ柄の白スーツであり、チンピラにしか見えなかった。怖い。

次に副編集長が挨拶をする。立場的にそういう役割になるのだろう、とても現実的なことを丁寧に述べておられました。
その後、受賞者ひとりひとりが盾や賞状や目録を受け取り、最後に写真撮影をして閉式となった。
本当に形だけだなぁ、というのが正直な感想である。
まぁサプライズはここからという感じであった。
まずは出版社の内部を案内してくれるとのことである。次に中華料理屋に移動して懇親会という運びである。

集英社は日本のエンターテイントが集まる発信局のひとつだ。そのビル内は、興味のある人からすればテーマパークのようなものかもしれない。
廊下に飾られているキャラクターパネルなどを見るだけでもじんわりと感慨深い。ポスターもあちらこちらに貼り付けられているし、床に並ぶ段ボール箱には郵便物らしき物の束が山のように入っている。ファンレターかもしれないな、と思いながら通り過ぎる。

出版社の内部の様子はテレビドラマなどで何かとお茶の間にお披露目されている。
たいていは広いオフィスの一室に所狭しとデスクが並んでいる。デスクと言う名のパーソナルスペースはその編集者個人の仕事っぷりが目に見える形を成す。人によっては資料が綺麗にまとめられていたり、あるいは乱雑に積み上げられていたりするものだ。
そんなドラマ上の映像と氏が見た実際の光景に、さほど違いはない印象だった。ただし『原稿や資料に埋まって徹夜続き、風呂に入る暇もなく仕事中』というような髭面ボサボサ頭の編集者はいなかった。
全体的に綺麗にまとまっており、どちらかと言えば落ち着いていたように思う。在室の編集者の数が少なかったこともこのイメージに影響を与えていたものと思われる。
それと編集者曰く、どうやら部署の合併などで大きな動きがあるらしく、それでデスクなどを引っ越ししたばかりだからキレイなのだ、とのこと。もしもフル稼働状態だったならば『原稿や資料がお風呂代わり』というような、物語上の編集者が実在していたのかもしれない。

さて編集部の大部屋の奥には校閲の部屋へと続く扉があった。そこは口頭での説明だけで中には入れなかった。作業中とのこと。その扉が高尚なオーラをまとっているかのように見えた。

編集部のオフィスで椅子に座り、そこに居合わせた編集者と少し話したりもした。
「厳しい世界ですよぉ」というのは彼らにとって初対面の挨拶のようなものなのかもしれない。ただしその口調は人それぞれなので、その言葉が帯びる緊迫感やら圧迫感やら真実味は人それぞれ全然違う。
中には『小説を書くために何が必要か』ということを、その編集者の体験を踏まえて聞かせてくれる。まさに生の声であり、門外不出というか、なかなか耳にできないものである。あの作家さんはヤバいよぉ、みたいな。
刺激的で貴重な体験であった。
しばらく話していると、ある編集者が「ちょっと待ってて」と言ってどこかへ行き、すぐに戻ってきた。
1冊の本を手にしていた。大沢在昌さん著『売れる作家の全技術』の単行本であった。
「あげる、これに商業小説の創作についての神髄が書かれてるから。ものすごく勉強になるから」とのこと。
最初からその本を受賞者に渡すということが予定されていたわけではない行動であった。たまたま手が空いた時にオフィス見学に来た受賞者がいて、少し話をしてみたら気が合ったのでプレゼントしよう。そんな偶発的なものだったのだと思う。幸運なことである。

さて、頂いた本はと言えば市販されているものなので手に入れようと思えば簡単に手に入る。しかし編集者から直接手渡されるという背景を持つと、何か特別な重みを感じられるものだ。伝説の黄金の書を手にしたような、そんな感じがした。だからとても感慨深い気持ちになり、本を両手で持ち、その表紙をじっと見つめてしまうのだ。
すると、あることに違和感を覚えるのである。
角川書店
氏は思わず聞いてしまった。
「え、他の出版社のですがこのようなことは普通なのですか?」
編集者のリアクションはとても軽いものであった。
「いいのいいの、良い本は良い本なんだから」
ライバル企業の製品を宣伝するようなことは、通常商売ではご法度というのが暗黙の了解であろう。しかしオフィスビル内で競合他社の本をおススメするのだから驚きであった。
つまり、本当に良い本なのだろう。

 

その後、他の階層へと向かい他の部署なども見学させてもらうことに。
その途上、また刺激的なシーンを目撃する。
廊下の途中に自動販売機のあるスペースがある。そこは廊下から区別されているというわけではなく、空間がやや膨らんでいるだけという感じである。当然、すぐそばを人が通りすぎていく。
そこには丸い小さなテーブルと椅子が3セットくらい設置されている。簡素なものだから長居することは想定されていないのだろう。しかし、そんなところに明らかに長居しているに違いないと思える人がいた。その人はテーブルに張り付くようにして何か作業に没頭しているようだった。
その真横を通行者が通りすぎるのだけれど、座っている人の意識がそちらに向くなんてことはない。それほどに作業に集中しているのだ。
案内してくれている編集者もそんな違和感バリバリの人がいることを気にも留めない。あっさりと通りすぎて行く。
つまり、それは彼らにとって日常的なことなのだ。
それが誰だったのかはわからない。それに作業中の手元をマジマジと覗き込むことはできなかった。しかし、締め切りに追われた漫画家さんが、そこで原稿を書かされているという風情だけは感じ取ることができた。
空いている部屋はいくらでもあるだろうに、なぜそんなところで原稿を描く必要があるのだろうか。そんな風に疑問視してみると、その光景は確かに『厳しい世界』の一幕に違いない、と思えるものであった。

また違う部屋に入る。
そこにはチンピラがいた。白地に黒いラインのスーツ姿のあの編集長である。その人がその部屋の上座的デスクにいた。
あぁ、本当に編集長だったんだぁ。
出版社のビルは刺激に満ち溢れている。

 

時はすっかり夕食時になっていた。そのまま編集者に案内されて中華料理屋に移動する。
暗い店内を暖色のスポットライトが照らし出している。濃紺の木目調をした雰囲気の良いでお店である。デートに向いていそうな感じであった。
編集部は6人掛けテーブルを3つ占拠していた。総勢13人から18人くらいか。実際に数えてはいないので正確なことはわからないのだけれど、確かなことは受賞者3人以外は全員編集者である。
まだこの時、氏たちは受賞者として歓迎されている段階なので肩身の狭さはない。しかし想像するに、もしも締め切りを抱えている作家さんだったならば、ただの地獄でしかないのだろうなぁ。
このあと仕事のある編集者たちもいる。しかし「さすがに仕事なので飲むわけにはいかない」などとは誰も言わなかった。「今日はそういう日だから♪」と言って、皆お酒を注文していた。
カンパ~イ。
テーブルの上が多彩な中華料理で埋め尽くされる。どれもとても美味しかったという記憶はあるのだけれど、その一品一品を細かくは覚えていない。なぜならば、それよりも編集者との業界話の方が充実していたからだ。
氏の隣には担当編集者が座っていた。
先にも書いた通り、氏とその担当編集者は会話の波長が合わない。冗談を冗談として受け取れるポイントが違うし、なごやかに軽口を挟むタイミングも違う。盛り上がり方も違う。そもそもその担当編集者はとてもクールなタイプで、氏以外の人とも馬鹿話をするような感じではないのである。口下手とは違う、本当にクールなのだ。そんなだから、共通の話題が用意されていて、真面目で落ち着いた話ならばずっと話していることができたのである。
これはプライベートではない、仕事なのだ。
仕事の会話ならばいくらでも話せる、ということ。
出版業界について。小説創作について。
とにかく多くのことを聞いたのだけれど、会話全体を通して驚かされたことがある。
この編集者、多くの小説の内容を人物名なども含め具体的な内容を記憶しており、それを即座に言語化できるのだ。
それだけ多くの本を読んでいるということにも驚かされるし、それほどの数を読んでいるのにも関わらず、そのひとつひとつの内容を詳しく覚えているのだ。それをこちらが難なく理解できるように順序良くアウトプットできてしまうのだ。まるでどこかにあらすじ原稿があって、それを読んでいるかのような感じであった。
氏は思わず、いったいどんな読解力と記憶力をしているのだと突っ込んでしまった。
するとその担当編集者は平然と「僕なんて平凡でもっとバケモノみたいな人いますよ」と言う。そう言いながら向かい側でお酒をがぶ飲みしている編集長や副編集長などに視線を向けていた。
恐ろしい世界だな、と感じた次第である。

当然なのだけれど、氏の好きな小説は何かということも問われる。
氏は思いつくタイトルをいくつも挙げる。あえて色んなジャンルや年齢層の作品にする。さすがに読んだことのない作品もあるだろうと思っていたのだけれど、驚くべきことに全てご存じだった。こうなってくると、なぜか追い込まれていくような気がしてくる。どうしても自分の不勉強ぶりを自覚せざるを得なくなるのだ。

続いて、挙げた小説作品のどこが良かったのか、という問いを重ねられる。
氏は小説など、漠然と楽しいかどうかという感じでしか読んでいない。感覚的に読んでいる。ときに分析的に読むことはあるけれど、好きな小説となれば楽しむことを優先してしまうため、より感覚的な読み方になってしまっている。そんなだからすぐに説明ができるほど内容がまとまっていないし、登場人物の名前すらも曖昧だったりする。
そんなだから天井を見上げるようにして、記憶を手繰り寄せながら感想を述べることになる。とてもではないけれど、理路整然とした話し方は不可能であった。
それでもその担当編集者は「なるほど」と理解を示してくれる。ただし、そのあとに「その作品はね」と、氏の数倍詳しい内容と充実した感想を話してくれるのだ。
驚きの連続である。
また氏は思わずと問うてしまう。
「むしろ読んでいない作品は何なんですか?」
「ほとんど読めてないですよ」
時間があるのならばもっと読んで勉強したい、というようなニュアンスの返答だった。
一線級の舞台にいるプロってすごい、と思う一面であった。
「まずは何でもいいから2000冊読んでみてください。そこがスタートラインです」と軽く言われた。
とにかく密度の濃い時間を味わい、充実の経験をすることができた。
とても楽しかったし、刺激的であった。

 

懇親会解散後、編集部の人たちは酔いもそのままに仕事をするために社へと戻って行った。
氏はそんな姿を見送り「頑張らなくては!」という内なるものが熱く盛り上がる感覚を抱き、宿泊するホテルへと向かう。
ところで、これら宿泊費をはじめ、交通費、賞金その他もろもろ氏の全てにかかる費用は出版社持ちである。お金を払っても体験できるものではないというのにありがたいことである。何から何まで幸運な1日でした。

さて、氏はこの後何カ月も、たくさんの長編小説を書いてこの担当編集者に提出するのだけれど、編集者のこのプロ技能がゆえの厳しい洗礼を受けることになる。
担当編集者とのやり取りは、月に1つ長編新作を書き上げ、それをメールで送付し意見をもらうという形となった。
なぜそうなったかの経緯は割愛するとして、受賞作はひとまず棚に上げておこうというわけである。
新作の内容についての指示はナシ。
プロット段階での提出もナシ。
事前の助言もナシ。
とにかく思うがままに書いたものを読ませてください、ということだった。
これで「やった~自由に書けるぞっ」とはならなかった。というのも、方向性やテーマを限定してくれないということは、どこまでも自分で考えて正解を引かねばならない、ということになるのだ。当然のこと、編集者は口には出さないのだけれど、好みや求めるものがある。さらに言えばその編集部のレーベルカラーというものだってあるのだ。遊びでやっているわけではない、あくまでもビジネスというのが大前提なのだ。よって「好きに書いて良い」と言われたからといって、それそのままの言葉として受け取ることなどできはしない。
言い換えれば、ゼロヒントで『僕たち編集部が何を求めているのかを含めて想定し、それに合わせた作品を上納せよ!』ということとなる。

いかにせよ、やるっきゃない。
1カ月目のカウントダウンはすでに始まっている。悠長に考えている余裕などない。最初から提出できなかった、なんてことだけはなんとしてでも避けなければならない。
そこでひとまずは受賞作があるのだから、その受賞作のスピンオフ的な作品にしてみよう、ということにした。
氏の受賞作は中世ヨーロッパをベースにした舞台のダークファンタジーであった。ハイファンタジーというところはレーベルカラーと適合するのだけれど、ダークな部分がややキツすぎたかなという感じに思える。
よってダークな要素を少し薄め、評価された世界観やら心理描写やらを詰め込んでみるか、と。
そうして受賞作を書いたノリと同じようにプロットすら考えずに執筆に入るのである。そもそも、この段階での氏はそういう書き方しか知らなかったのだから仕方のないことであった。
完成した物をメール送信して、しばらくすると編集者から返信がくる。
『読みました。電話をしたいので、空いている日時を教えてください』

電話の向こうの編集者は言外に「こんなゴミを読ませるな!!」と言っているようであった。
この時こそが、初回にして即座に担当編集者と氏の力関係が決まった瞬間であった。
以後、立場の逆転劇は行われない。どころか、力関係において、その差は1ミリとて縮まることのない、まさに主と奴隷の完成形である。

新米作家と編集者が対立し、決別するというのは良くあることである。
新米作家が受けた仕打ちについて物申しているコメントはSNSなどを探せば簡単に見つけられることだろう。
作家によっては、自分の書いた作品は我が子のように愛おしいのだという。それは血と汗の結晶であり、大切な物であり、ゆえに尊重してほしいと思っている。同時に、自分の作品に至らぬ点が多いであろうことも自覚していたりする。だからある程度否定的な意見を言われることは覚悟しているという。ただし、それにしても作品を尊重した上で物申してほしい、という気持ちでいるらしい。
そんなだから、言葉を選ぶことなく頭ごなしに作品を否定されれば、最悪の場合自分の人格そのものを否定されているような錯覚を抱いてしまうのだ。

氏の担当編集者も、このような対立はよくあることだと言っていた。
編集者側からすれば、尊重しようがしまいが意見は変わらない。その意見をどう受け取り、どうプラスにするのかでしかないのではないか、と。
思うに、ビジネスとしてリスクを背負ってやっているという一貫した芯を貫いているのは編集者であり、であればこそ強い態度でいられるのではないか。どちらかと言えば、作家側に明確な信念のようなものがなく、ふわふわしていたりする傾向が強い気がするのは偏見だろうか。
そもそも編集者に反発し、その編集者を言いくるめられたとしても作品は何も変化していない。自分以外の誰かの意見が作品に活かされることはなく、ゆえに、その作家自身以外の視点を作品に重ねることができない。つまり、成長できなくなり進化も止まってしまう。『自分』という小さい殻の中で作家性を完結させてしまうのはなんとももったいないとも思うわけである。
確かに瞬間的には歴戦のプロ編集者を御すことができて優越感に浸れるのかもしれない。けれど、その時点でその編集者はそんな作家をバックアップしてくれなくなる。そうして他の編集者にも相手にされなくなれば『自分の価値』を高めてくれる存在を永劫得られないことになる。
やはりどう考えても損失の方が大きいように思えるのだが。
意見は全部聞き入れ、活かせることは全部取り入れる。もしも言われた意見が不要だと思えるものならば使わなければいいだけのこと。あなたの意見は間違っている、などと反論する必要はそもそもないのである。
「はいそうですね」と答えながら、その言われた意見に対し、どのような質問を返せばより具体的なヒントが引き出せるのだろうか、と考える。
これが良かったのだろう。
意にそぐわないクソ原稿を提出してしまった氏の場合、編集者は最初こそ怒り心頭という態度であったのだけれど、次第にイチから丁寧に創作のヒントをくれるようになった。
そうして初回の電話でのやり取りは密度の濃い3時間であった。

客観的にみると、普通は喧嘩して終わってただろうなぁ、なんて思う。
残念ながら、氏はせっかく頂いた創作のヒントを未だ活かすことのできていない愚鈍な迷文家である。しかし、何らかの文章を書く際、常にその編集者の基本のお話は頭の中央に鎮座している。

さて、こんなふうにして新作長編を1カ月に1作送付し、電話で意見交換をするというやり取りをしばらく続けることになる。
編集者曰く、たいていの受賞者は1作か2作のやり取りをすれば書けなくなる、とのこと。
氏がこの編集者から唯一褒めてもらったことがある。
「書く技量と気概だけは認める」とのことだった。内容はさておき、ということなのだけれども。
会話の波長が合わないとか言いながら、いつも長電話であった。

中には高評価を受けた作品もあった。ただ、そういうものはなぜかレーベルカラーに合わないものばかりであった。
小さな部署なので月々の出版枠が多くはない。その中でレーベルが打ち出しているカラーと違うものが選ばれることは絶対にない。
一度、レーベルカラーに合わせたモノをという条件を受けたことがある。それで書いて提出したのだけれど、やはり評価は散々なものだった。
編集者曰く、レーベルが対象としている年齢層と氏が得意な分野が重ならないのだろう、ということだった。氏のそれはもう少し上の層向け、とのこと。それは投稿時にも氏自身が思っていたことなので、特に驚くようなことではなかった。「やっぱりそうなのか」と答え合わせができた気持ちになった。

やがてその編集者も忙しくなり、氏もこのまま続けても発展はないのだろうという段階になっていった。
その編集者は目的としている部署に配置されていたわけではなく、いずれ行きたい部署があると話していた。その部署の対象とするユーザーの年齢はもっと上なので、もしかしたらまた邂逅することがあるかもしれませんね、ということで受賞後の関係はひとまず終わりになった。
「いい原稿ができたらいつでも送ってください」とのことなので、直接原稿を送付できる窓口は一応継続という形ではあったのだけれど、だからといって気安く送れるわけではない。
その他大勢の人たちを同じように、また新人賞で勝負し、そこで勝ち残った上でその編集者とは邂逅すべきだと思う次第である。

とにもかくにも小説について何も知らない門外漢が、一部の人しか味わえないような体験ができたのは嬉しい誤算であった。
氏は「どうしても小説家になりたい」なんて気持ちで、新人賞に投稿したわけではないし、この文章を書いている時点でもその気持ちに特に変化はない。気が向くことがあって何か書ければまた投稿しようかな、というような感じである。どちらかと言えば日常の趣味のひとつに近い感覚である。ブログの文章を書こうかな、日記を書こうかな、という思いつきと同じなのだ。
そんなに甘くないと言われればそれまでなのだけれど、作家になれるか否か、大成するか否かは根性論ではない。
やる気がなくても、ただバイト感覚で文壇の頂点に立った人だっているのである。
要は気合をいれなければ書けない人もいるし、やる気がなくても長文を完成させられる人がいるというだけのことである。結果論、その文章が商用に適合するか否か。ただそれだけのことである。そういった意味では『努力の過程』や『心意気』などを一切考慮してもらえない実力主義の小説業界は、確かに甘くはないのだろうなぁ。
まぁ、それは別に小説業界に限ったことではない。
生きることそのものが厳しいんだよなぁ、と思う。
だから、できる限り、自分の意気込みで自分自身を圧迫はしたくないんだよなぁ。
そうも言っていられないことも少なくはないのだけれども。
ではでは。